作家の芸術感のわかる記述 その3

【子供たちに教えられて】

 ある友人が、「おまえ、よく種切れにならないだ」と気遣ってくれた。私自身も時々、よくぞ種切れにならぬ ものだ、と驚くことがある。でも、今のところどうやら種切れを起こさずに過ぎている。その秘密は、子供たちとの関わりにあると思っている。

  スケート靴の片方を、刃の方から描き出した7歳の男の子。しっかりとした筆使いで、だんだんに靴の上の方へ描き進め、片方のスケート靴を描き上げたところで、「プーッ」と一息入れ、安堵の様子。「スケート買って貰ったんだね」との問いかけに、「うん」。スケートを買ってもらった喜びそのものがテーマで、この子の絵はここで出来上がったのだ。

  私自身も、中学1年生の頃、編み上げの革靴を貰った喜びを片方の靴で表現し、出来ばえにいささか満足したことを思い出す。ところが、「片方ではまずい」といった意味の評価を貰い、どうして両方描かなくてはいけないのかと疑問に思ったことを、今も忘れない。今、この子の絵を思い出しながら、「片方だっていいんだよ」と、声を張り上げて言ってやりたい。

  十才になる子どもたちと温泉へ行った時のことである。予めした注意も耳に入らず、喜び勇んで浴槽の深いところにとび込んだ男の子。あっさりと湯の中に頭まで沈んでしまい、しばらくにして空中に顔を出し、浴槽の縁にしがみついた。"お湯の中で背伸びした姿勢で浮かんで立ち上がったように描いた絵"の、手足や首の異様な長さに、この子のお湯の中での苦しさを察し、思わず強い感動をおぼえた。

  にわとりと、さんざん遊んだ揚げ句、"舞い上がったにわとり"を描いた七才の女の子。「紙いっぱいに大きく描こう」との指導についていけず、彼女は画用紙を縦に使って上の方に、下三分の二の余白をとって、舞っているにわとりを描いた。この子は、にわとりが高く舞い上がるところなど見たことがなく、高々と、舞ったにわとりを見たの時の驚きは、大変なものだったろう。つまり三分の二の余白部分は、この子にとってテーマを表現する最も大切な部分だったのである。この子のすごい構成力に驚きもし、感心もした。若しも、他人がこの余白の部分は不要として切り取ったとしたら、子供の空間をとらえたすばらしい表現は、その瞬間に抹殺され、いっぺんに信頼関係を失ってしまうだろう。身の毛もよだつような恐ろしさを感ずる。

  二、三の子どものすばらしい実例を紹介したが、このような例は数え上げれば切りがない。

  絵には本来、作者の心や考えが潜んでいるものと考える。その心や考えのしっかりと感じ取れるようなものが、本物であろうと思っている。

  このような真の表現を見取るためには、絵面の見かけに騙されることなく、純真な子供の心のように、空をかける鳥のような大きく、広い心を持つことが大切である。

  子たちの真の表現の何とすばらしいことか。子どもが私の絵を描いたり、版画を創るところを間近に見ていて、たくさんのアイデアや技法などをはじめいろいろな恵みに与っている。有り難いことである。


【最近の作品作り】

 この頃、力んで、力んで作り上げた作品より、ごく自然に、さらっとできたもの、いとおしく思うようになった。それは、改良に改良を加え、大きく鮮やかに作り出した、造花のように無表情な観賞用植物よりも、路傍や樹蔭にひっそり咲く、自然のままの、小さな草花の美しさにに強く惹かれるためであろうか。それらの草花は、『雑草』という汚名を着せられて邪魔者扱いされ、常に草取りとか、草むしりと称する危険に晒されている。人間にこんな理不尽だ仕打ちを受けながらも、たくましく、しかもそそとしたかわいい花を咲かせ続けている。舗装道路のさけめなどに咲く草花には唯々驚きの目を見張るばかりである。

  飾りたてない草花の自然のたくましい美しさに気付くには、小さな虫たちが、これらの草花と戯れ、語り合うような、又ぐっと近寄って虫めがねで、のぞき見るような、やさしく、繊細な感覚を磨いていかなくてはと思っている。